日本から北イタリアはピエモンテ、そして現在インドで、 デザイン企画や通訳、レクチャラーなどを 勤めるTommyCoccinellaが、インド、日本、インドで、 見つけたことつづるゆったりまったりブログ
2013年2月7日木曜日
2013年2月4日月曜日
映画を見るときの反応が気になる。レ・ミゼラブルを劇場に見に行って。
私、やはりリサーチャーだからなんでしょうか?
映画を見ているときの反応が気になります。
先日、インドで奇跡的〔本当にインドで公開されるとは期待してなかったので、
あーDVDを買うしかないんだろうなと思っていましたから〕に公開されました、
シェイクスピアにつぐほど、
私の人生を変えたほどのおおおっきなミュージカル作品、
レ・ミゼラブル!!!!!
私、鹿賀丈史氏のジャン・ヴァルジャンのような旦那様にあって、
引き取られるシーンのコゼットのように、
抱き上げてもらってくるくるしてもらいたいと思っていましたから!
で、イタリア人の夫とインドのお客様、
こうも違うものかと比較すると面白いと思います。
イタリア人の夫→
「いい作品だね〔カソリック教徒的に〕。
音楽は、オペラの領域だよ〔オペラ好きとして〕。
あ、イギリス製作なんだ。
さすがドラマチックだよね。
ユーゴーはここまで人間と倫理の問題に深く入れるとはね。
役者陣もよかったし。
フランスはこう〔革命のできた国民〕なんだよ。
愛国心があって、フランス政府は自分の力で成っていると思ってる。
イタリア人にはそういうところがないんだよ。
自分の出生地ぐらいしか興味ないからね。
だって、ローマは別物だから・・・。
しかし、重いなーーー。
デヴィッド・コッパーフィールドじゃないんだから。
救いは、日々の笑いにもあるだろ。〔やっぱりイタリア人。〕」
インド人の団体たち→
ボリウッド慣れしているからミュージカルは大丈夫かと思いきや、
やっぱり、歌ありお色気あり笑いあり涙ありアクションありのボリウッドとは違います。
最後の反応として、前半のテナルディエたちに笑った後、もう、
後半から、もう悲しい雰囲気と、
とぎれない緊張感につまんなくなってしまったのか、
まったくよそを向いて、違う世間話に興じたり、
携帯をいじりはじめる。
育ったコゼットが美しいファルセットで歌うたびに、
「なんじゃこりゃ?」って感じで、
学生の男の子たちは猿まねして笑いのねたにし、
女の子たち、それに、うけまくり。
感情が伝わらず、ちゃちゃを入れはじめる。
ロックは大好きでも、若者のテノールやソプラノのファルセットが、
きっと苦手なんでしょうね。
ファルセット、特に、異様に、うけてます。
私、サントラをそらで覚えてるので、
感情移入しまくりのところで、
笑いがおこり、カチンときたことなんどか。
インド在住の日本人どうしで思ったのですが、
インド伝統音楽とボリウッドな民謡的なこぶしのまわす歌い方か、
英米ロックかしか聴きなれていないそう。
学校でも西洋クラシック音楽の教育は、そこまでなされてないとか。
だから、カラオケや誕生日の歌が、ずれずれなんですね。
どれだけ大真面目でも、
どれだけ悲しくっても、
受け止める側に、違和感をもたれたら、
笑いにしかならないという、
悲しい結果でした。
私は、涙にくれるは、
学生たちと合唱する気持ちで革命精神にゆらされるはで、
乗りまくりでした。
客観的に批評できる立場でないのです。
ライブで歌うキャストたちを長まわしでとらえるという試みが大変面白く、
映画にしかできない、ダイナミックなカメラワークがある。
大きな世界に漂う絶望と小さな私たちの小さな希望
〔告白やつぶやきのようなミュージカルナンバー〕が、
うねりを上げて、革命に。
ここでひとつふたつ。
確かに、すごくオープニングは暗示もあったり、ダイナミックだったりで印象的ですが、
”Look down”は、固定観念からなんだろうけど、こう、つるはしを振り下ろす動作とリズム、
監視官から身を隠すような環境があって、こう絶望が上から振ってくる感覚なんですよね。
流されるような感覚って、リズムとあってないんでないだろうか・・・とふと思ってしまって、
リズムとベースが心にしっかり錘を落とさないと、
その後の流浪との対比がでないんでないかとか・・・。
全体的に、うねりまでの一人一人の心象や環境の細やかな描写にとられるばかりに、
序破急の抑揚に欠けてしまったのではなかろうかと。
それがあって、辛くなってしまう観客も出てきてしまったのではないかなと推測してみたり・・。
でも、リアリティがあるのが、すばらしかったですし!
心ゆくまで鑑賞いたしました!

映画を見ているときの反応が気になります。
先日、インドで奇跡的〔本当にインドで公開されるとは期待してなかったので、
あーDVDを買うしかないんだろうなと思っていましたから〕に公開されました、
シェイクスピアにつぐほど、
私の人生を変えたほどのおおおっきなミュージカル作品、
レ・ミゼラブル!!!!!
私、鹿賀丈史氏のジャン・ヴァルジャンのような旦那様にあって、
引き取られるシーンのコゼットのように、
抱き上げてもらってくるくるしてもらいたいと思っていましたから!
で、イタリア人の夫とインドのお客様、
こうも違うものかと比較すると面白いと思います。
イタリア人の夫→
「いい作品だね〔カソリック教徒的に〕。
音楽は、オペラの領域だよ〔オペラ好きとして〕。
あ、イギリス製作なんだ。
さすがドラマチックだよね。
ユーゴーはここまで人間と倫理の問題に深く入れるとはね。
役者陣もよかったし。
フランスはこう〔革命のできた国民〕なんだよ。
愛国心があって、フランス政府は自分の力で成っていると思ってる。
イタリア人にはそういうところがないんだよ。
自分の出生地ぐらいしか興味ないからね。
だって、ローマは別物だから・・・。
しかし、重いなーーー。
デヴィッド・コッパーフィールドじゃないんだから。
救いは、日々の笑いにもあるだろ。〔やっぱりイタリア人。〕」
インド人の団体たち→
ボリウッド慣れしているからミュージカルは大丈夫かと思いきや、
やっぱり、歌ありお色気あり笑いあり涙ありアクションありのボリウッドとは違います。
最後の反応として、前半のテナルディエたちに笑った後、もう、
後半から、もう悲しい雰囲気と、
とぎれない緊張感につまんなくなってしまったのか、
まったくよそを向いて、違う世間話に興じたり、
携帯をいじりはじめる。
育ったコゼットが美しいファルセットで歌うたびに、
「なんじゃこりゃ?」って感じで、
学生の男の子たちは猿まねして笑いのねたにし、
女の子たち、それに、うけまくり。
感情が伝わらず、ちゃちゃを入れはじめる。
ロックは大好きでも、若者のテノールやソプラノのファルセットが、
きっと苦手なんでしょうね。
ファルセット、特に、異様に、うけてます。
私、サントラをそらで覚えてるので、
感情移入しまくりのところで、
笑いがおこり、カチンときたことなんどか。
インド在住の日本人どうしで思ったのですが、
インド伝統音楽とボリウッドな民謡的なこぶしのまわす歌い方か、
英米ロックかしか聴きなれていないそう。
学校でも西洋クラシック音楽の教育は、そこまでなされてないとか。
だから、カラオケや誕生日の歌が、ずれずれなんですね。
どれだけ大真面目でも、
どれだけ悲しくっても、
受け止める側に、違和感をもたれたら、
笑いにしかならないという、
悲しい結果でした。
私は、涙にくれるは、
学生たちと合唱する気持ちで革命精神にゆらされるはで、
乗りまくりでした。
客観的に批評できる立場でないのです。
ライブで歌うキャストたちを長まわしでとらえるという試みが大変面白く、
映画にしかできない、ダイナミックなカメラワークがある。
大きな世界に漂う絶望と小さな私たちの小さな希望
〔告白やつぶやきのようなミュージカルナンバー〕が、
うねりを上げて、革命に。
ここでひとつふたつ。
確かに、すごくオープニングは暗示もあったり、ダイナミックだったりで印象的ですが、
”Look down”は、固定観念からなんだろうけど、こう、つるはしを振り下ろす動作とリズム、
監視官から身を隠すような環境があって、こう絶望が上から振ってくる感覚なんですよね。
流されるような感覚って、リズムとあってないんでないだろうか・・・とふと思ってしまって、
リズムとベースが心にしっかり錘を落とさないと、
その後の流浪との対比がでないんでないかとか・・・。
全体的に、うねりまでの一人一人の心象や環境の細やかな描写にとられるばかりに、
序破急の抑揚に欠けてしまったのではなかろうかと。
それがあって、辛くなってしまう観客も出てきてしまったのではないかなと推測してみたり・・。
でも、リアリティがあるのが、すばらしかったですし!
心ゆくまで鑑賞いたしました!

2013年1月21日月曜日
エマヌエーヌ・ニコジアではありませんが、今後のご愛顧をお願いいたします!
フェラーリやピニンファリーナ関係の情報通の皆様、お世話になっております!!
過去の数々のニコジアの仕事を愛していただいて、本当にありがたい限りでございます!
ひとつ、日ごろ、前々から、ありがたいながらも、
なかなか申し上げにくかった点がありまして・・・。
ときどき、Emanuele Nicosiaを、
×→エマヌエーヌ・ニコジア
と記載なさっているのを見かけるのですが、
実は、本人の名前、Emanuele Nicosiaを日本語で再現すると。
○→エマヌエレ・ニコジア
または
○→エマヌエーレ・ニコジア
〔あまり伸ばしすぎると本人的にはピンとこないそうでして、
その辺は良い塩梅で・・・。ややこしくってごめんなさい。〕
なのです。
彼のわかる彼の名前で呼んであげてくださいませ・・・。
〔おせわになった私の元上司は、ニコシアと呼んでいましたので、これも本人に通じます。〕
どうでもいいですよね〔笑〕。
申し訳ございませんでした・・・・。

過去の数々のニコジアの仕事を愛していただいて、本当にありがたい限りでございます!
ひとつ、日ごろ、前々から、ありがたいながらも、
なかなか申し上げにくかった点がありまして・・・。
ときどき、Emanuele Nicosiaを、
×→エマヌエーヌ・ニコジア
と記載なさっているのを見かけるのですが、
実は、本人の名前、Emanuele Nicosiaを日本語で再現すると。
○→エマヌエレ・ニコジア
または
○→エマヌエーレ・ニコジア
〔あまり伸ばしすぎると本人的にはピンとこないそうでして、
その辺は良い塩梅で・・・。ややこしくってごめんなさい。〕
なのです。
彼のわかる彼の名前で呼んであげてくださいませ・・・。
〔おせわになった私の元上司は、ニコシアと呼んでいましたので、これも本人に通じます。〕
どうでもいいですよね〔笑〕。
申し訳ございませんでした・・・・。

2012年3月14日水曜日
ふと思うこと。2012年1月31日 〔カーデザインとプロダクトデザインについて〕
カーデザインとプロダクトデザインについて、エマヌエレ・ニコジアとディスカッションしまして、
また考えてみたことがあるので、書きのこしておかなければ!
以前、デザイン言語としての違い、クルマとプロダクトのデザイン傾向について、書いてみた記事
〔今回との私の見解の違いなど、読みたい方はこちらまで!→「ふと思うこと。2010年5月18日」〕がありますが、
今回は、クルマ、プロダクト、建築を、
所有者の気持ちや関係、距離感という切り口で考えてみたいと思います。
ニコジアも、カーデザインとプロダクトデザインの違いをこう感じていました。
プロダクトとクルマとの違いって、物体として、比較的、静的なものですよね。
〔造形や機能に動的な存在感を持たせたりすることはありますが・・・。〕
クルマは、動的なものなんです。
自分から触りにいって、手にとって、使ってみることができます。
産業革命以降、所有する時間は短くなり、不景気やエコが叫ばれ始めた今、
日本には古くからあった侘び寂びに代表されるサスティナビリティを、
コンシューマープロダクトにも求めるようになり、また所有の時間は伸びていきました。
ただ、身近なモノ〔ロボット以外〕が自分からアプローチしてくることはマレです。
建築はといえば、ユーザーが大きな金額を個人として投資し、
自分の希望どおりにその空間に入りこみ、ユーザーはその空間に囲われて住まい、
その空間を自分のものにするよう、時間をかけて関係づくりを愉しみます。
その関係は家族の何代にも続き、パブリックや文化になんらかの影響を与えます。
この引用を
動きがないのです。
確かに、いろいろ朽ちてきたり、色がついてきたりして修復を求めてくることはありますが!
クルマは、どうでしょうか?
以前の記事のように、クルマはニコジアがいうには、以下の2点、
私は、これをユーザーとの関係というものとして捉えたいと思っています。
ユーザーを中心として、対象に、または対象がどうアプローチする関係なのか。
プロダクトは人に運ばれたりしますが、その中に入るのは
クルマは人と離れたり近づいたりすることが自由です。
人の前に勝手やってきては見送るなんてこともありえます。
ユーザーになると自分が中に入って、他者に向かって近づいくというアプローチを持っています。
自分の体の延長ともいえるんではないでしょうか。
だからこそ、顔があったり、表面が動物のようであったり、名前がついていたりするんでしょうね。
バイクなんかもこういう感じなんでしょうか。
ただし、住まうという要素はまったくなくなってくると思いますが。
これからもこういうことを考えていきますので・・・。はい。

また考えてみたことがあるので、書きのこしておかなければ!
以前、デザイン言語としての違い、クルマとプロダクトのデザイン傾向について、書いてみた記事
〔今回との私の見解の違いなど、読みたい方はこちらまで!→「ふと思うこと。2010年5月18日」〕がありますが、
今回は、クルマ、プロダクト、建築を、
所有者の気持ちや関係、距離感という切り口で考えてみたいと思います。
ニコジアも、カーデザインとプロダクトデザインの違いをこう感じていました。
〔造形や機能に動的な存在感を持たせたりすることはありますが・・・。〕
クルマは、動的なものなんです。
私も前回の記事のように、こんなことを考えていました。
自動車デザインとモノ、家具や空間デザインとは、互いの歩み寄りがあるとはいえ、根強く違いがあるものです。ダイナミック〈動的、躍動感がある〉かスタティック〈静的、安定している〉かという基本的なモノの在り方の違いがあります。そうそう、プロダクトのユーザーはそこに在るプロダクトの周りをめぐって、じっくり眺めたり、
自分から触りにいって、手にとって、使ってみることができます。
産業革命以降、所有する時間は短くなり、不景気やエコが叫ばれ始めた今、
日本には古くからあった侘び寂びに代表されるサスティナビリティを、
コンシューマープロダクトにも求めるようになり、また所有の時間は伸びていきました。
ただ、身近なモノ〔ロボット以外〕が自分からアプローチしてくることはマレです。
建築はといえば、ユーザーが大きな金額を個人として投資し、
自分の希望どおりにその空間に入りこみ、ユーザーはその空間に囲われて住まい、
その空間を自分のものにするよう、時間をかけて関係づくりを愉しみます。
その関係は家族の何代にも続き、パブリックや文化になんらかの影響を与えます。
この引用を
「建築とは、ほとんどの場合はだれもがその存在を外から目にすることができ、おのずと公(おおやけ)になることから、本来パブリックな性格をもっています。
パブリックな性格をもつことの意味をチャーチル元英国首相は「私たちが建物をつくるが、 その後は、建物が私たちをかたちづくる」という言葉で残しているように、実は、建築や街によって、私たち自身が大きな影響をうけているのです。
http://www.1101.com/skytree/2010-03-09.html」しかし、建築はユーザー側に動いて自分に向かってやってきたりはしません。
動きがないのです。
確かに、いろいろ朽ちてきたり、色がついてきたりして修復を求めてくることはありますが!
クルマは、どうでしょうか?
以前の記事のように、クルマはニコジアがいうには、以下の2点、
コストの大小という軸とライフサイクルの長短という軸の他にもうひとつ、静、動があると。
私は、これをユーザーとの関係というものとして捉えたいと思っています。
ユーザーを中心として、対象に、または対象がどうアプローチする関係なのか。
プロダクトは人に運ばれたりしますが、その中に入るのは
クルマは人と離れたり近づいたりすることが自由です。
人の前に勝手やってきては見送るなんてこともありえます。
ユーザーになると自分が中に入って、他者に向かって近づいくというアプローチを持っています。
自分の体の延長ともいえるんではないでしょうか。
だからこそ、顔があったり、表面が動物のようであったり、名前がついていたりするんでしょうね。
バイクなんかもこういう感じなんでしょうか。
ただし、住まうという要素はまったくなくなってくると思いますが。
これからもこういうことを考えていきますので・・・。はい。

2010年6月24日木曜日
仕事でのお知らせ(2)BEESTUDIO Subaru Impreza Berlinetta - VirtualCar.itでの記事
大変お待たせしております!!前回より、以前、私達のスタジオで仮説スタディとして3Dプロトタイプに致しました、スバル社へのオマージュ、スバル・インプレッサ・ベルリネッタの独自開発プロジェクトがVirtualCar.itというクルマを扱うウェブ・マガジンで、取り上げられましたので、この場を借りて、皆さんに連載してご報告させて頂いています。
以下、記事の引用のご紹介と、併記にて私の日本語での拙い訳(ボールド部)を掲載いたしますので、是非ご高覧ください。なお、このプロジェクト、または他業務に関するお問い合わせは、tommycoccinella(a)gmail.comまでどうぞ。〈お手数ですが、〈a〉をアットマークに変えてください。)
今回の記事は、前回の記事(以下リンク)の続きになります。
Articoli del 7 GIUGNO 2010
2010年6月7日
BEESTUDIO(ビースタジオ) スバル インプレッサ ベルリネッタ
di Sergio Chierici alle 18:24
記者 セルジョ・キエリチ(18:24)
・・・«La sofisticata e precisa tecnica aeronautica insieme alla trasmissione integrale, ha consentito a Subaru di essere una Azienda che produce sofisticate e potenti auto da corsa, pur restando nel mondo della realtà quotidiana perché le Subaru da corsa sono delle automobili da rally che, quindi, mantengono un rapporto reale con il mercato diventando campioni del mondo con le stesse automobili che il cliente usa tutti i giorni, cosa che è impossibile per le Aziende che costruiscono F1 o Sport Prototipi, vetture che non hanno niente da condividere con le automobili che si usano tutti giorni, anche se le F1 sono molto importanti come laboratorio di ricerca per l’evoluzione della tecnologia automobilistica.
・・・「航空機から由来する、精巧の技術と独自の四輪駆動があり、スバル社は日常のドライブシーンという現実的な文脈上でも、パワーある洗練されたレーシングカーを生産させることを可能。なぜなら、スバル社にとってのレースはラリーだからだ。ユーザーのいる市場の現実という地に足をつけた状態で、彼らが日常で愉しんで乗る同じモデルでラリーの世界チャンピオンというタイトルを獲るようなことができる。F1やスポーツプロトタイプを手がけるメーカーにはなかなか見られない。現実的に生活者に届く商品とレーシングカーは、全く関係がなかったりすることはざらだ。F1が自動車技術の研究と発展の場としては大事なものだとしても。
Per esempio: la Ferrari é l’unica Azienda automobilistica che non ha mai abbandonato le competizioni. Nell’esperienza vissuta di molti ferraristi le Ferrari sono, o meglio, “erano” auto da corsa con la targa perché la sensazione delle Ferrari come auto da corsa con la targa è dovuto anche alla loro forte componente artigianale: l’auto da corsa è infatti per definizione un prodotto artigianale».
例えば、フェラーリ社は、レースの舞台から一度も退いたことがない。フェラーリのモデルの数々はナンバープレートのついたレーシングカーなのだ、いや、「だった」のだ。フェラーリ愛好家(フェラリスタ)ならわかることだろう。フェラーリはほとんど職人による仕事であるという強い要素もあって、ナンバープレートをつけたレーシングカーという感覚がある。実際、レーシングカーは、ハンドメードの一品だと、言えるだろう。」
L’idea, dunque, di realizzare una Impreza Berlinetta dalla tecnologia avanzata ma di tipica “impronta” Subaru fu sottoposta all’ing. Mauro Forghieri, che realizzò uno studio di pre-fattibilità della tecnica per una possibile vettura sportiva Subaru “top di gamma”, paragonabile alla Ferrari Enzo o alla Ford GT40, ma utilizzando elementi della Impreza di serie. ・・・
スバルの「刻印」はのこし、先進技術でインプレッサ・ベルリネッタを実現するというアイデアはエンジニアのマウロ・フォルギエーリ氏に委ねられ、インプレッサをベースとして共有するという条件で、フェラーリ・エンツォやフォードGT40に匹敵する、スバル社のスポーツ「フラッグシップモデル」としてあるべき、技術面でのフィージビリティスタディを担当した。・・・
- BEESTUDIO per Virtual Car
まだ、続きます・・・。

2010年6月8日火曜日
仕事でのお知らせ(1) BEESTUDIO Subaru Impreza Berlinetta-VirtualCar.itでの記事
専門的なポストになりますが、以前、私達のスタジオで仮説スタディとして3Dプロトタイプに致しました、スバル社へのオマージュ、スバル・インプレッサ・ベルリネッタの独自開発プロジェクトがVirtualCar.itというクルマを扱うウェブ・マガジンで、取り上げられましたので、この場を借りて、皆さんに連載してご報告させて頂きます。
以下、記事の引用のご紹介と、併記にて私の日本語での拙い訳(ボールド部)を掲載いたしますので、是非ご高覧ください。なお、このプロジェクト、または他業務に関するお問い合わせは、tommycoccinella(a)gmail.comまでどうぞ。〈お手数ですが、〈a〉をアットマークに変えてください。)
Articoli del 7 GIUGNO 2010
2010年6月7日
BEESTUDIO(ビースタジオ) スバル インプレッサ ベルリネッタ
di Sergio Chierici alle 18:24
記者 セルジョ・キエリチ(18:24)
Vi segnaliamo questo studio di design che ha come tema un’ipotetica Subaru Impreza in versione Berlinetta, realizzato autonomamente dallo studio di design BEESTUDIO, fondato nel 1990 da Anna Visconti e Emanuele Nicosia. Di seguito, una breve presentazione dell’interessante progetto.
今回は、仮説プロトタイプがテーマである。アンナ・ヴィスコンティとエマヌエレ・ニコジアにより1990年に創立されたBEESTUDIO。彼らが独自に、スバル社の誇るインプレッサへのオマージュとしてスポーツクーペ(ベルリネッタ)を仮説スタディした。以下、端的に、夢のあるこのプロジェクトをご紹介していきたい。
BEESTUDIO ha scelto di realizzare, qualche anno fa, un progetto di rinnovamento del “brand” Subaru, pensando ad una sua possibile collocazione innovativa in chiave internazionale, e partendo dall’immagine che il marchio giapponese ha in occidente. Come riferimento, è stato scelto un modello “iconico” del marchio, la Subaru Impreza, molto gradita ai designers di BEESTUDIO per un caratteristico duplice aspetto: la raffinatezza meccanica unita ad uno stile «un po’ grezzo», ma di grande personalità, e capace di suscitare emozioni.
Partendo dunque dal principio di realizzare qualcosa di innovativo -e non su una specifica richiesta Subaru, che pure ha collaborato con BEESTUDIO in altri progetti- si è dunque pensato ad una nuova vettura “di nicchia”, che potrebbe imporsi grazie all’immagine del marchio, ma anche alle caratteristiche complessive della Casa – «agile, di medie dimensioni, cosmopolita, creativa, imprenditoriale, efficiente, dinamica»: con un’espressione, Subaru ha un’immagine “in progress”, che può mutare non tanto per i contenuti, ma per «i codici con cui si esprime», ossia per la tipologia e le caratteristiche delle sue vetture. Ecco, dunque, un layout completamente inedito per l’Impreza: una berlinetta affine a quelle di scuola italiana «degli anni d’oro».
「スバルでありながら、今のスバル社にはない新しさを」を与えたかったのだという。BEESTUDIOとは旧知のスバル社からは、このプロジェクトに対して、オーダーや細に入る要件などが一切なかったにも関わらず、「軽快さ/取り回しの良い中型サイズ/コスモポリタン/クリエイティブ/挑戦/合理性/躍動」というような複合的なスバル社自体の特徴とそのブランド・イメージ、そして〈完成への進行形〉というスバルの概念的な世界観はそのままに、ベースの商品の〈表現手段や所作〉、ランゲージやキャラクターを変えることで、この「ニッチ」なクルマの、新しい形を開発した。とにかく、何しろ、この車両レイアウト、このインプレッサのため、新たにゼロから設計されたものなのだというのだ。イタリア・デザイン「黄金時代」を彷彿とさせる、洗練のクーペ(ベルリネッタ)像の提案であるといえるだろう。・・・
- BEESTUDIO per Virtual Car
次回は、技術面からの紹介記事です!
興味をもっていただけたら、どうぞ、下のボタン↓をぽちっと!

2010年6月5日土曜日
クルマなイタリア。6月4日(2007年にかいたもの)
以下は、昔(2007年)、立ち上げて放置していた他のブログで書いた記事なのですが、意外にも結構な反響をもらっていたので、こちらにも移します。内容は基本、コピペですので一度読んだ方(いないと思うけれど)はあしからず。
あくまで、車のデザイン業界に関してであること、しかも私の個人的な違和感であることを、 はじめにいっておきたい。
ピニンファリーナ社で、 車のデザイナーは、 スティリスタと呼ばれていたそんな時代。
エンジニアの図面をもとに、 スタイル、つまりはお洋服をつくり、
フィグリスタが、色をつけ、光をいれ、
今では、レンダリングと呼ばれる、 フィグリーニに仕上げ、
ある程度、3次元になったときの姿を想定して、 みんなで確認する。
フェラーリならエンツォ・フェラーリ氏と共に選択する。
何度かこれを繰り返して採用したり、手を変えたり、
他デザイナーやエンジニアのアイデアを組み合わせたりして採用案。
これを、上から、横から、前からの 等身大の図面(セクション図)におとして、 モデルにする。
(はしょってますけど。)
アナログなその時代のスケッチたち、 スティリスタのサインがされたものは、 砂消しゴムで丁寧に消してから、 プレスに渡されていたそうですので、 社の代表が代表者としてコメントすることがあっても、 そのスケッチやアイデアが誰のものかを、 口にすることはタブーだったわけである。
確かに、その時代にいたデザインチーフの名前だけでも、 調べてみれば、わかるもの。
しかし、その時代でさえ、かならずしも、 デザインチーフやディレクターが、 一人でエクステリアのアイデアから、 レンダリングにおとして、 カラリングして、 マテリアルを手配して、 モデルをつくって、 インテリアをスケッチして、 モデルに、そして生産車にまで実現しているわけではない。
プロジェクトによっては、 もちろん、チーフのポンチ絵が、 熱い思いで貫かれ、 プロダクトになったものもあるかもしれない。
だが、そんな時代は、せめて、
ガンディー二どまりなのじゃないだろうか。
車だって、商品です。芸術的な情緒的な価値もありますが、貴族だけが車をもつ時代ではない今では、 悲しいかな、投資して、それがリターンされるよう、 売ってなんぼの「商品」なんです。
いろんなヒトがかかわっているのは必然なわけです。
この10年ぐらいでしょうか。 AUTO&DESIGNや、CAR STYLING(2010年196号で休刊(涙))などには、 スケッチの端っこに、 デザイナーのサインが、 まるで、ブランドバッチのように、 誇らしげに入るようになっている。
確かに自分をPRすることは大切だが、統合の度重なるメーカーにとって、 ブランディングが叫ばれてだいぶたった今、この状況はどうなんだろう。
一人でデザインしたと名乗る、 名声高いスター選手、
これを、 あちらこちらは引き抜きたがるもので、
その年俸だって、 うなぎのぼりである。
(それは、デザイナーの妻としては、嬉しいことではあるけれど、
ワークチームの一員としては、複雑な心境だ。)
ここで、雇う側も慎重になるべきで、 スターに頼りきると、 より高い年俸に引かれて他の会社にいってしまった後や、 その社との関係が悪化したりしたときには、 まだまだ そのブランドの文化が育っていなかったり、 軸がずれてしまっていたり、 ひどいときには、資金を骨抜きにされて、 プライドさえ踏み潰されていたりするわけだ。実際、そんな痛い思いをしたところはトリノにあちらこちらとある。
2007年の初めくらいからだろうか、AUTO&DESIGNに掲載された スケッチには、一部、 サインが消されるようになっていた。
確かに、 自分を商品としてキャリアのために、成果を上手にプロモートすることは大事だけれど、 それを自分ひとりの創造物として、 所有権をひとりじめできるものではない。
あくまで、
チームワークのたまもので、 意匠は社のもの。マネージャーとしての裁量の巧みさはあれど、 なにはともあれ、メーカーさんがいて、そのメーカーさんのお客さん、買ってくれる人がこそ、仕事ができる。
なにも特権があるわけじゃない。 肝に銘じて、姿勢を改めるときが、 来ているのではないか。
※ちょっと加筆したところもあるが、これを書いたのは、2007年。
実際、いろいろなデザインスタジオやカロッツェリアが倒産したり、統合されたりという、
カーデザイナー飽和状態に陥っている、現在2010年である。
もし「おお、いいな」とココロに響いたら、
ついでに、ぽちっ↓とお願いします。
あくまで、車のデザイン業界に関してであること、しかも私の個人的な違和感であることを、 はじめにいっておきたい。
ピニンファリーナ社で、 車のデザイナーは、 スティリスタと呼ばれていたそんな時代。
エンジニアの図面をもとに、 スタイル、つまりはお洋服をつくり、
フィグリスタが、色をつけ、光をいれ、
今では、レンダリングと呼ばれる、 フィグリーニに仕上げ、
ある程度、3次元になったときの姿を想定して、 みんなで確認する。
フェラーリならエンツォ・フェラーリ氏と共に選択する。
何度かこれを繰り返して採用したり、手を変えたり、
他デザイナーやエンジニアのアイデアを組み合わせたりして採用案。
これを、上から、横から、前からの 等身大の図面(セクション図)におとして、 モデルにする。
(はしょってますけど。)
アナログなその時代のスケッチたち、 スティリスタのサインがされたものは、 砂消しゴムで丁寧に消してから、 プレスに渡されていたそうですので、 社の代表が代表者としてコメントすることがあっても、 そのスケッチやアイデアが誰のものかを、 口にすることはタブーだったわけである。
確かに、その時代にいたデザインチーフの名前だけでも、 調べてみれば、わかるもの。
しかし、その時代でさえ、かならずしも、 デザインチーフやディレクターが、 一人でエクステリアのアイデアから、 レンダリングにおとして、 カラリングして、 マテリアルを手配して、 モデルをつくって、 インテリアをスケッチして、 モデルに、そして生産車にまで実現しているわけではない。
プロジェクトによっては、 もちろん、チーフのポンチ絵が、 熱い思いで貫かれ、 プロダクトになったものもあるかもしれない。
だが、そんな時代は、せめて、
ガンディー二どまりなのじゃないだろうか。
車だって、商品です。芸術的な情緒的な価値もありますが、貴族だけが車をもつ時代ではない今では、 悲しいかな、投資して、それがリターンされるよう、 売ってなんぼの「商品」なんです。
いろんなヒトがかかわっているのは必然なわけです。
この10年ぐらいでしょうか。 AUTO&DESIGNや、CAR STYLING(2010年196号で休刊(涙))などには、 スケッチの端っこに、 デザイナーのサインが、 まるで、ブランドバッチのように、 誇らしげに入るようになっている。
確かに自分をPRすることは大切だが、統合の度重なるメーカーにとって、 ブランディングが叫ばれてだいぶたった今、この状況はどうなんだろう。
一人でデザインしたと名乗る、 名声高いスター選手、
これを、 あちらこちらは引き抜きたがるもので、
その年俸だって、 うなぎのぼりである。
(それは、デザイナーの妻としては、嬉しいことではあるけれど、
ワークチームの一員としては、複雑な心境だ。)
ここで、雇う側も慎重になるべきで、 スターに頼りきると、 より高い年俸に引かれて他の会社にいってしまった後や、 その社との関係が悪化したりしたときには、 まだまだ そのブランドの文化が育っていなかったり、 軸がずれてしまっていたり、 ひどいときには、資金を骨抜きにされて、 プライドさえ踏み潰されていたりするわけだ。実際、そんな痛い思いをしたところはトリノにあちらこちらとある。
2007年の初めくらいからだろうか、AUTO&DESIGNに掲載された スケッチには、一部、 サインが消されるようになっていた。
確かに、 自分を商品としてキャリアのために、成果を上手にプロモートすることは大事だけれど、 それを自分ひとりの創造物として、 所有権をひとりじめできるものではない。
あくまで、
チームワークのたまもので、 意匠は社のもの。マネージャーとしての裁量の巧みさはあれど、 なにはともあれ、メーカーさんがいて、そのメーカーさんのお客さん、買ってくれる人がこそ、仕事ができる。
なにも特権があるわけじゃない。 肝に銘じて、姿勢を改めるときが、 来ているのではないか。
※ちょっと加筆したところもあるが、これを書いたのは、2007年。
実際、いろいろなデザインスタジオやカロッツェリアが倒産したり、統合されたりという、
カーデザイナー飽和状態に陥っている、現在2010年である。
もし「おお、いいな」とココロに響いたら、
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2010年6月4日金曜日
私、とみー。(自己紹介)
私、とみーが何をしているのかをお話します。
クリエイティブとメーカーさんの間、
またバイヤーやディストゥリビューターにたって、
どんなものをつくってもらいたいか、どんなものを売りたいか、買いたいか、
どんなものをつくってもらいたいか、どんなものを売りたいか、買いたいか、
そもそもどんなデザインに落とし込みたいか、またどう生産したいか
を整理して深めて展開して具体化する
デザイン企画、商談通訳、ビジネス翻訳をしてます。
クルマだとかバイクだとか電車、照明、時計、などのプロダクトのメーカー、
シャツやバッグなどファッションメーカー、
テキスタイル、皮革、樹脂メーカーなどマテリアルメーカー等などなど、
最近では観光業界の皆さんにも
幅広くお世話になっています。。
ワタシの学生時代は、デザインだとかは、勉強してませんでしたが、
インターンから正社員に採用いただいた、日本の自動車メーカーの
先行開発デザインスタジオで、企画営業として鍛えられ、
数々のトレンド研究分析、コンセプトカー企画、次世代プロダクト企画などに関わりました。
さかのぼると、もともと学生時代は、
英文学専修でシェイクスピアの戯曲を研究していたり、
英語や日本語で役者として芝居をしていたわけで、
イメージ世界を言葉や動き、ビジュアルにしてこの世に生み出すことを、
研究していいました。
市場にあふれる言葉と気分
をトレンドやマインドとして、イメージにし、
商品というひとつの世界として構築することは今にも通じますね。
ま、父がおもに、広告やパッケージの
グラフィックデザインをしていたのですが、
そのメンタリティが役立ってるんでしょう。
門前の小僧経をおぼえるって感じでしょうか。
言葉とイメージで地図をつくり、この世にうみだします。
経験豊かな旦那とネットワークと共に、
あちらこちらのお客さんの願いにたどり着けるように、
間の道をつなぐ、プランナー。
ひよっこですが、イタリアで日本と世界に羽ばたけるよう、
みなさん、いろいろご教示、ご鞭撻の程、宜しくお願いいたします。
以下リンク先が私達のネットワークと、オフィスです。
http://www.dsn-network.net/
http://www.beestudio.it/
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